2006/11/11 00:53
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 「遊びの教育学」の意義を再確認

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もう大分前のことになるが、市の公民館講座で「遊びの教育学」というのを講演したことがある。現在の学校教育では小学校に入学した段階から「勉強」と「遊び」を分離し、「遊び」を排除し、「勉強」に特化した指導を行うが、それでは健全な教育は行えないということを述べたものであった。

これについては、下記のページをお読みいただきたい。

■「遊びの教育学」--遊びの復権−「子どもは遊びを通して人間となる」http://freeschool-paidia.hp.infoseek.co.jp/asobinokyouikugaku.html

さて、今回ここに取り上げるのは、少し前に「掲示板」で掲載したものだが、このブログので内容に相応しいかなと思いここに再掲載することにした。(なお、前回のものに一部訂正を加えてある)

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私が以前から唱えている「遊びの教育学」の考えを理論と実践の面で補強してくれる新たな本を見つけたので、ここで少し紹介したい。

『IQが140の子どもが育つ遊びのルール』(楽しみながら“脳力”がどんどん高くなる)(「母と子のオムにパーク」室長 福岡潤子 青春出版社)

という本である。

子どもにとって「遊び」ほど「学習」になるものはない、というのが私の持論である。だから、私が運営しているフリースクール・ぱいでぃあの基本理念にも「遊学統合」とある。そもそも「ぱいでぃあ」という言葉自体が「パイディア=遊び」(組織化されない原初的な遊び)「パイデイア=教育・教養」(ギリシャ思想の根底に流れ、のちキリスト教に受け継がれた教育理念。本性(個性)を覚醒させ、本来の方向に向けかえ、真の認識に慣らす過程。転じて、広く教育、教養をいう ← 三省堂「広辞林」)を元にした造語なのである。つまり、「遊びの教育学」という呼称はこれに由来するのである。

遊びは大人にとっては趣味や気晴らしにしか過ぎないかもしれないが、≪子どもにとっての遊びは「学習そのもの」なのです。≫と福岡さんは言う。

平安時代の清少納言の『枕草子』の一節に、次のような描写がある。
「二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはい来るみちに、いと小さき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとおかしげなる指にとらえて、おとななどに見せたる、いとうつくし」

このように、子どもにとってはすべてが学びでありかつ遊びである。そこにまだ遊びと学びとの分裂はない。遊び=学びなのである。そして、あえて声を大にして言うが、このような体験を豊富にしているかどうかが、知能の発達に大きく関わってくるのである。脳科学に関する最近の研究でも、幼児にとってはペーパーテストよりも昔遊びのようなものの方がより脳を活性化するというデータも出ているようだ。

≪幼児教室というと、子どもに特殊な英才教育や、学習プリントをこなさせる…。そんな光景を思い浮かべられるかもしれません。しかし、脳の一定の部分だけを刺激するドリルより、遊びを通して自ら考える子どもにしていくほうがIQは確実に高くなるといえます。≫
と福岡さんは断言する。

世のお母さん方は、この方の言葉にはしっかり耳を傾けた方がいい。もしかすると、英才教育の謳い文句に駆られた母親たちが、勉強勉強ということによって逆に子どもたちをバカや問題児にしているかもしれないのである。
≪どんなにIQが高くて成績がよくても、人間関係が築けず、社会に適応できなくてはなんにもならない≫
のである。
≪遊びを通し、知能という狭い意味での指数だけでなく、良い人間関係を作る、最後までやりぬく、自制する、といった将来必要不可欠な力も育っていきます。≫とも福岡さんは言っている。

福岡さんの言葉に説得力があるのは、ある種の学者先生のように机上の推論や無味乾燥な教育学の文献研究から出てきたものではなく、日々の実践の中から導き出されたものだからである。彼女の幼児教室ではこの「遊び」を通して、IQ130、140、あるいはそれ以上の子どもたちを育てていると言う。

しかし、彼女の教室の場合、遊びが大事だからと言ってただ遊ばせているだけではない。注目すべきは遊びの実践を通して遊びの組織化を行っていることである。それが彼女が唱えるところの≪IQを高める「遊びのルール」≫である。ここが一般の人が考えている「子どもを自由に遊ばせる」という子どもの遊びに対する考え方と大きく違うところであろう。

「遊びは自由であるから意味があるのではないか」「遊びを規則化させれば“やらされている”という感覚を持ち、脳の活性化には繋がらないのではないか」「遊びの自由さとIQを高めるという効率化の発想とは相容れないのではないか」という疑問が当然生じてくる。

この疑問に十分に応えられているかどうか。それは多少疑問の残るところだが、彼女は子どもの遊びを成長の度合いによって段階的に捉えており、遊びを静的な概念で捉えてはいない。つまり、≪遊びを通して着実に子どもを成長させる方向に持っていくことが、実は可能なの≫だと言うのだ。それがIQを高める「遊びのルール」なのだと彼女は言う。

ただし、誤解のないように言っておく。このルールに当てはめて子どもを育てることが本来の目的ではない、別に「子どもの脳力を育てる上でのキーワード」がある。それは子どもの≪脳が楽しいと感じているかどうか≫であると言う。

だから、子どもに関わる親や教師も、子どもをただ遊ばせていればいいということにはならない。子どもが≪楽しいと感じられる状況にしてあげるために求められるのが、親(大人)のスキル(具体的な言葉のかけ方や見守り方)≫なのである。これによって≪できる喜びや知る喜びを感じられるようになった子ども達は、はた目にも活き活きとして≫きて、やる気や自信をつけることができるというのである。

お分かりのように、この幼児教室で試みていることは決してIQを高めることが目的ではない。それは「結果」なのである。

確かに、幼児の遊びの価値に着目したのは素晴らしい。しかしそれでもなお、「IQを高めるための遊びの組織化」という側面は否めない。効率・効果の尺度で遊びを切り取っていることに変わりはない。では、そこで切り捨てられた遊びは本当に無駄であり、不要なものなのであろうか。遊びに効率、効果の観点が入った時点で本来の遊びは変質してしまっているのではないか。無駄、無価値な活動にこそ遊びの本質があるのではあるまいか。無用の用こそ遊びの要ではないのか。無という空間からビッグバンによって有が誕生したように、豊かな無こそが有の源なのではあるまいか。そんな疑問を拭い去れない。

だが、何かを得るということは何かを捨てるということ。何か分からない文様を前に悩んでいた脳がその絵解き・図柄を理解した瞬間に次回からは瞬時にその画を見分けることができるようになる。騙し絵の類にそんなものが多い。いわゆる頭の体操である。だが、そのアハ体験は一度体験してしまうと逆に二度とその見方から自由になることができなくなる。他の見方をできなくしてしまうのだ。それは理解の発展なのか、それとも理解の固定化なのか。

この、「子どもの遊びをどう捉えるか」という問題も、同様の難しさを内包している。しかし、子どもの脳の活性化のために大きな見方がここに開けたのを見る気がする。

なぜ、子どもの遊びの問題を重視するか。それは今、子どもたちの周りから遊びが失われたばかりでなく、遊びを奪われたことによる様々な「教育の病理」が生じているのを感じるからである。「子どもにとって遊びは最大の学びなのである」。と同時に、「遊びは教育以前の感覚の受容器、学ぶ器を作る行為でもある」からである。

世のお母さん方がプリント等の早期教育に走る時、もしかするとそれは盆栽のように見てくれの良いこじんまりとした植木を育てることに邁進しているのかなと思わなくもない。これを私は「盆栽教育」と呼んでいる。無駄を省き、形を整え、愛すべき風情に仕上げつために丹精を込める。しかし、それでは大地に堂々と根を張り風にそよぎ陽光を一杯に浴びるような大樹を育てることには決してならないだろうと思うのである。