2006/12/27
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 映像の世紀の「新しい国語力」獲得のために(1)  

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映像の世紀の子ども達に対する覚書(3

「映像の世紀」に相応しい国語力とはどういうものなのか。学校教育の外でというか、その周辺でというか、民間の側から「新しい国語力」獲得のための様々な動きが始まっている。その幾つかを紹介したい。

その一つとしてまず、学習参考書の『中学総合的研究国語』(旺文社 2800円)を取り上げたい。今は学校に通い更に学習塾にも通うという子が多いが、結局のところ「勉強は自分でするものだ」というのが私の持論である。学校でも塾でもひたすら誂えられた受身の勉強に邁進し、ニューヨークの公立学校の先生:ジョン・テイラー・ガットさんの言葉ではないが、まことに「学校はバカを製造するところではないか」という気がする(ジョン・テイラー・ガット著『バカをつくる学校』高尾菜つこ訳、成甲書房)。この『中学 総合研究』シリーズは学校での学習にとどまらず自学自習を想定して編集されているのが特徴である。他の教科でも言えることだが、本格的に国語の勉強をしたいと望むなら、学校の授業を教わるだけでなくこの参考書のような百科事典的な書物が絶対必要である。

本書の「まえがき」には「なぜ国語を学ぶのか」とあり、国語の勉強に対して一般に言われている疑問を取り上げ、サルトルの「飢えた子どもに文学は有効か」という問いを紹介し、疑問を持つことの大切さを強調している。そして言う。「言葉によって考え、鍛えられた力だけが、大切な問いを掴むことができる。そして、その問いに、誠実に立ち向かうことが出来る」のだと。問う力も、論ずる力も、反論する力も、「すべて言葉の力・国語の力だ」との述べている。

単なる教養の国語に留まらず、こういう国語の論じ方が出て来たのは恐らく平成16年12月7日に発表されたOECDのPISAのテストの結果以降、日本の生徒の国語力、読解力の低下が真摯に論じられるようになってきてからのことだろう。しかし、行政の側がいまだにどう対応していいか右往左往している中で、さすがは商業主義と言おうか、民間の側では応急措置の対応を含め、生徒の参考書や問題集、進学塾の運営の仕方に至るまで様々な対策を試みている。

この参考書もまたその成果の現われと見ていいのではないだろうか。全体的に従来の教科の総合参考書という趣や体裁は変わらないが、新しく言語を学ぶという感覚が全体を支配しているように見える。見方によっては、中学の出来の悪い国語の授業を受けるよりはこの本を隅から隅まで読破した方がよっぽど国語力のアップに繋がるのではないか、という気がしないでもない。

そういう本書の中でとりわけ注目したものがある。それは第6章「映像イメージの読み解き方を知る」という単元である。実はここにはこういう断り書きが添えられている。「この章は普通、学校では学習しない分野なので注意してください。時間と興味があるときに読んでみましょう。」と。さらりとしか触れていないが、ここは見過ごせない重要なところだ。この参考書の執筆者達はそんな「学校では学習しない分野」をあえて書き加えたかったのではあるまいか。何を隠そう、この単元があるからこそこの参考書をここで取り上げる気になったのである。もっと言えば、この単元を読むためにだけでもこの参考書を手にする価値はあるのだ。

単なる中学生向けの学習参考書をそこまで持ち上げていいのかという意見もあるだろうが、この参考書の記述は国語学習のあるべき新しい方向性を示していると私は見る。それは本書に従って言えば「言語によるコミュニケーション」から「「映像によるコミュニケーション」への広がりということであり、それらを含めて新しい国語力のあり方として捉えられるということである

単元は[1]映像イメージの読み解き方 [2]漫画の読み解き方 一.「はだしのゲン」(「場面」を読む) [3]漫画の読み解き方 二.「YAWARA」(「動き」を読む、「一瞬」を読む) [4]漫画の読み解き方 三.「海猿」(漫画でしか描けないもの)[5]映画の読み解き方({東京物語」無いものを観る) [6]広告の読み解き方 一.画面構成 [7]広告の読み解き方 二.文字の効果 [8]写真の読み解き方 一.芸術写真を読み解く [9]写真の読み解き方 二.報道写真を読み解く [10] (現代編のまとめに代えて)、となっている。

さて、この単元の羅列から何か気付かれた方がいるだろうか。これまでの記述で私は映像を「報道」に特化して論じてきたきらいがあるが、ここではそれに留まらず映像を言語と同等、あるいはそれを超えた表現手段として捉えている。だから、ここではそれが生の映像であるか加工された映像であるかという問い自体は直接問題とはならない。問題は、我々が今まで言語や言語表現に対して行ってきた考察を今後は映像や映像表現の領域にまで広げるなければならないということである。つまり、学校教育での国語力はどうあれ、真の社会人としての国語力を身につけようと望むならば、今後は「活字言語」だけでなく「映像言語」まで視野に入れた学習をしなければならないということである。

それは新たな言語の力によって、「圧倒的な情報量を有する映像特有の力」だけでなく「描かれた様々な物の向こうに潜んでいる様々な物語」や「映像には直接表現されず、直接語られていない物語」までも含めて、映像を「読み解く」という行為である。そうするならば「今までとは違った、豊かで新しい世界を、映像は語り始める」と本書の書き手は言う。

こういう映像の捉えかたは「漫画の読み解き方」に留まらず「映画の読み解き方」にも受け継がれる。ここでは映像を受身で享受するだけでなく、映像に意味を与える観る側の者たちの「感性と想像力」にまで言及している。そしてここにはハリウッド映画のような目まぐるしい派手なシーンはないけれども、見る者の心の奥に働きかける「無いものを観る」想像力、「空ショット」からそこに描かれていないもの、隠された意味をも読みとる想像力にまで及んでいる。

「広告の読み解き方」では三分割法、10時8分の配置、5対3の黄金分割など「デザインの文法」としての画面構成、映像と言葉(文字)との響き合いや文字の配置・字体・大きさなどのデザインとしての効果、そして時代を映す鏡としての広告のキャッチコピーにも言及している。

「写真の読み解き方」では「芸術写真」と「報道写真」を題材に、時間・空間・人物・画面構成などの面から画面を読み解く。報道写真では世界的な賞を得た幾つかの写真を題材に取り上げ、被写体の人物、時間・空間に留まらず、画面では語られない物語、音や声や匂い…、そしてシャッターを押すカメラマンの心情などにも触れている。そして、その映像を活写したカメラマンの心情にも迫る。

「言葉による枠組み」の章では、この説明をする前にまず「何かもやもやした、訳の分からない図形」を我々に見せる。それは無意味に塗られた白と黒の模様にしか見えない。ところが、そこにある謎解きの絵柄を見せたとたん「なるほど」と納得すると共に、今度はその訳の分からなかった模様をその図柄でしか見ることが出来なくなっていることに気付くのである。確か茂木健一郎氏によればこれを「アハ体験」と称し、肯定的に位置づけている。確かにそれは一つの解決という進展には違いなかろうが、二度とその枠組みでしか見られなくなるということは逆に思考がある見方に限定されてしまいそれ以上の発展を望めなくなるという危険も併せ持っているということにもなる。本書では他に虹の色や人の顔の例を挙げてその危険性を指摘している。

この章のはじめのところで、テレビから小さな切手に至るまで「私たちの身の回りは映像だらけである」と指摘していた。見る者に対して、発信された「映像メッセージ」であると。そして、この章で取り上げた映像は、「漫画」→「映画」→「広告」→「写真」という順に文字が少なくなり、より純粋な映像イメージになっている、という。そして、「学校の学習では触れられていないカテゴリーだが、現代社会に生きる我々には必須」であるとも述べている。

今や「映像の世紀」とは言うけれども、実際には映像だけに全てを語らせることはまずないし、ほとんど不可能なことでもあろう。どんな優れた映像や能弁な映像であろうと、それに枠組みを与え価値付けるのはやはり言葉の役割なのである。たとえそこに「無題」と書かれていてもそれもまた一つの題名なのである。そして、映像の言語は言葉の言語に比べて多種多様な圧倒的な情報量を有しているけれども、それを方向付け意味づけるのは言葉による言語なのである

蛇足だが、映像の世紀における現代の言語はかつて活字文化が主流であった時代とは異なった困難さと可能性を持っている。そこで、それに相応しい言語教育、国語教育はどうあらねばならないのか…それに取り組む必要があるが、それはまだ端緒に付いたばかりである。従って今後、我々はその可能性を発掘すべく様々な取り組みをしなければならないであろうと思う。