2006/12/30
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 映像の世紀の「新しい国語力」獲得のために(2)  

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


『東大生が書いた「国語」のことが感動的に好きになる本』を読んで

ここ何回か「映像の世紀の子ども達の国語力」というテーマでこのブログの話題を綴ってきたが、今回の話題もその延長線上にある。

手元にあるのは、『東大生が書いた「国語」のことが感動的に好きになる本』(ダイヤモンド社 長谷川裕著 1300円+税)という本である。著者は現役の東大の学生だという。タイトルからすると何とも胡散臭そうな本だが、帯には「知れば知るほど好きになる。国語のバイブル、ここに誕生!」とあり、「第1回出版甲子園グランプリ受賞作」「高校受験対策もカンペキ!」「5つの国語力がこれ1冊で身につく!論説・小説・詩歌・古文・作文」ともある。中高年の社会感覚からすると何とも厚かましいというか「盲蛇に怖じず」(「めくら」は使ってはいけない差別用語なのか?変換されない)というか、若者特有の自信過剰というか……とにかく大層なタイトルの本である。我々の素直な感覚からすれば、「巧言令色」と同じく「大言壮語少なし仁」というところだ。

だから、この本がある書店で子ども達の参考書売り場に並んでいた時、最初私は見向きもしなかった。単純に「学歴信仰の強い子どもや父母達をターゲットにした本の類だろう」と思ったからである。ところが、何度行ってもその本がある。そこで、参考書というよりは読み物として面白いかもしれないと思って買い求めたのであった。だから、買ってきてもすぐには読まず、しばらくは積読の状態であった。ただ、最近の私の関心事として「どうしたら子ども達の国語力をアップさせることができるか」という問題がずっとあったので、そのうちに読もうとは考えていた。

実際に読んでみると、実にこれが面白い。だいたい今までの経験で、「国語力の向上のための勉強の仕方」などというタイトルの本で面白いと思ったことはほとんどない。国語ということで身につけなければならないことがあまりに広範囲であること、でもそれを身につけたら本当に国語力が向上するかと言ったらその確証もないこと(知識の向上は望めるとしても)、それに学者・教師の生真面目さと言ったらいいのかまず書かれている文章自体があまり面白くないものが多いことなどによるものだ。それなら、名の知れた作家の書いた「文章読本」の類の方がよっぽどましではないかと思う場合もないではなかった。結局のところ沢山の知識事項は網羅されてはいても、それで本当に国語力が伸びるかと言えは、そうだとは断言できないことが多かったのである。誤解を招くことを恐れずに言うが、その意味では、先にあげた旺文社の国語の総合参考書も、あの「映像の読みとり方」の章を除けばその分類に入るかもしれないのだ。

ところがである。この本はそういう一般の受験参考書とはちょっと違う。高校受験生のための国語の参考書という観点からすると「文法」「漢字」「語句」等の理解に関する部分が載っていないなど、不十分な点が多い。学校で配られる「国語便覧」ほどの役割もない。そういう意味では、これは純粋な参考書ではない。では、何か。この本のタイトルにあるように「国語が好きになる本」だということ、それに尽きる。面白い。実に面白いのである。受験用の国語の本がこんなに面白くていいのかとも思う。そういう本である。

なぜ面白いのか。それは単に受験に必要なことを必要だからと子どもに教えるというよりは、著者自身が子どもに語ること(著者はある塾の講師をしているらしい)を楽しんでおり、自身が自分の言葉をもって考え表現することを喜びとしているからではないかと思う。そして、若い人らしく、その言語感覚がとても新鮮で活き活きとしているのである。さらに、「国語」を学ぶと言えばどうしても受験勉強をするというイメージが付きまといどことなく陰気臭い感じがするものだが、彼の手にかかれば「好きなミュージシャンのラブソング、テレビCMのキャッチコピー、マンガやアニメのせりふだってみんあ『国語』の教材です」というように、実は身の回りにあふれている言語活動の全てが「国語」なのだと改めて気付かせてくれるのである

これはあくまでも受験用の参考書兼問題集であるから、「論説」「小説」「詩歌」「古文」「作文」の各ジャンルについて入試問題を交えながら具体的な考え方・解き方を説いている。ただし、ここにしち面倒臭い説明はほとんどない他の参考書や解説書の類からすると「え、それだけでいいの?」という感じである。ここでは文章の読解に限定されているが、いや、「本当にそれだけでいい」のである。読解は知識を当て嵌めるものではない。言葉をもって考えることである。本書はそれを見事に実践している。だから、本書を読めば自然に国語の読解力がつき、本書を読み終えた頃には国語力がアップし、国語が好きになっているという寸法である

まず「論説文」だが、著者は人は互いに論理によって理解するといい、「論理は世界の共通語」だという。そして、「勉強は論理という共通語を身につける作業」だともいう。理屈はそれだけで、後は文章を取り上げて具体的に説明していく。「東大生」というと何かとても高度な内容を難しく考えているというイメージがあるかもしれないが(「さすが東大生は難しい勉強をしている」…というように)、これは本書全体に言えることだが、「ふむふむ、成る程成る程」というように、その説明が実に明快で分かりやすいのだ。「クレバーとはこういう頭脳のことを言うのか」といった趣である。

これは「小説」の読解でも変わらない。ただ、ここでは「小説」を読むことと「小説問題」を解くことの違いをはっきり区別する。そして、独り善がりな読みや感情移入を戒め、事実・状況や表現から人物の心情を客観的に読みとることを求めている。そのために絶えず「状況チェック」を行い細かく文章を点検している。さらに「詩歌」においては、それは要するに「ラブソング」だと言い、「表現技法」や「約束ごと」をしっかり身につけ、解釈・鑑賞することを勧めている。

「古文」では大和ことばと中国語との出会いから日本語が現在の形になるまでの歴史を説明する。ただし、高校入試の古文では必要な知識は極めて限られており、逆にそれらをしっかり押さえておくことが差をつける鍵だとも説く。子どもたちはよく「古いことを勉強して何の役に立つの」という疑問を持つが、著者は「温故知新」ということだけでなく「異なる価値観」や「世界観」に触れることに意味があると説明している。

そして最後に「作文」。作文のコツは「自分にしか書けないことを誰にでも分かる文章で書く」ことにあるという。そして、「誰にでも分かるように書く」とは「論理的に書く」ことだと。つまりは論理性と独自性を磨くことであり、そのためには書くためのルールや条件に従うことが大事だという。

本書の特色の一つはこのように様々な言葉に囲まれ生活している子ども達の目線から国語を考えるということだがもう一つの大きな特色は脚注が豊富なことである。この脚注がこの本の本文では扱えなかった話題の幅を広げ、本文の主旋律では語れなかった様々な変奏を豊かに奏でている。この脚注によって現代の「国語」という言語活動がいかに複雑で多様な広がりを持っているかを明らかにする。そして同時に、これで完結ではなく、ここからが始まりであることをも明らかにする。それぞれの脚注はその水先案内のための簡単な紹介文なのである

ここには、先に紹介した旺文社の参考書にあった「映像」についての記述はない。ならば、本書は「映像の世紀の子ども達」の国語力にとっては片手落ちかというと必ずしもそうは言えない。ここにそういう単元はないが、この文章の書き手はむしろそういう映像の時代やインターネットの時代の国語力というものを全て織り込み済みと言っていいかもしれない。それは何かというと、それは本書の書き手の柔軟な言語感覚に内包されていて、あえて映像の時代の言語感覚という必要はないということになるかもしれない、と言ったら誉め過ぎだろうか。

本書は、国語の入試問題に強くなるための参考書兼問題演習書であると同時に、ことばを使って活動することが好きになる本である。本書は言葉と論理による未知の世界への誘いの書なのである。「知ること」「伝えること」を楽しみ、感動するためのスタートの本なのである。最後に著者は永井均の『子どものための哲学対話----人間は遊ぶために生きている』から「学問は勉強なんかじゃないさ。この世でいちばん楽しい遊びなんだよ」という言葉を引用している。本書は受験のための参考書である前に、言葉によって考え、知り、表現する喜びを教えてくれるための本なのである。だが、そのことを実際の中学生達がどれほど理解してくれるだろうか。

****************************************************************

今年の記述はここまでです。
ご愛読ありがとうございました。