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   『バカをつくる学校』という本を読んで

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ここに面白いタイトルの本がある。
先月発売され新聞でも紹介されていたからご存知の方も多かろうと思う。既に読まれた方もいらっしゃるかもしれない。

『バカをつくる学校』(ジョン・テイラー・ガット著、高尾菜つこ訳、成甲書房)
という本である。サブタイトルに「義務教育には秘密がある」とあり、帯には「ニューヨーク州最優秀教師の全米覚醒のベストセラー」「日本の教育もまるで同じ惨状だ!!」とある。

かなりセンセーショナルなタイトルの本で、逆に「これはゲテモノではないか?」とも思わせかねないが、中身は至って真面目な内容の本である。一言でまとめるなら、「原著出版社からのことば」にあるように、学校の義務教育とは「全人教育から政府の下請け教育への転換」にほかならないということになる。

彼は現場の教師の立場から(彼は売れっ子のコピーライターとしての仕事を投げ打って一介の教師に転身した)、国家が行う義務教育制度に根源的な疑問を投げかける。
たとえば、
チャイムによる集中力と思考の分断、まとまりのないパッチワークのような時間割、年齢による区別、番号による機械的なクラス分け、教師の感情や評価への受動的依存、プライバシーの欠如、敗者だと自覚させる競争、絶え間ない監視、指示待ち人間の生産工場、同じように考えることのを要求、野菜を品定めするかのような成績主義、他人は誰も信用できないと教えること……
といったように、国の教育制度全体が、子どもたちを自分で考えて行動することから遠ざけ、依存的な人間にしようとしていると言う。

それに対して、彼が教師としてやろうとする仕事は、「もはや教室で生徒に知識を授けること」ではなく、「生徒一人ひとりの可能性を引き出そう」とすることだと言う。「正しい教育」とは「子どもたちのやり方を尊重し、彼らにそのための場所と時間を与えること」だと彼は言う。

アメリカも二、三〇〇年前頃までは独創性や多様性にあふれた社会であった。そして、そこには自由な学校制度があったという。ところが、南北戦争の頃から中央統制が強まり、国家による学校教育制度、つまり義務教育が始まったという(当初はアメリカでも--日本でもそうであったが--反対派が圧倒的に強く、銃で抵抗したらしい)。ひとことで言えば、国家による義務教育制度とは「大衆を厳しく管理する」装置、言い換えれば「人的資源」として大企業や政府に奉仕する規格化された消費者や従業員、「公式どおりに行動する人間、コントロール可能な人間を生み出すためにつくられた」ものだという。結局のところ、自由や個性は「支配階級」にだけ許され、それ以外の大衆には必要ないものとされたというのだ。

では、国家が行うこの「非人間的な教育」によってどんな子どもたちが生み出されたか。彼は例を挙げて説明する。
(1)大人の世界に無関心、(2)集中力がなく長続きしない、(3)未来への関心がない。(4)歴史に関心がない、(5)他人に対して残酷である、(6)親しさや正直さを拒絶する、(7)物質主義的である、(8)依存的受身的で、新しいことに臆病…

今の子どもたちがこのような病的なパターンにあるのは学校とテレビに負うところが大きい。学校は子どもたちが自己認識を深めるための時間を奪い、個性や自信を失わせていると彼は言う。学校は時代と共に商業化され非人間的な場所、例えれば「学校という工場」となった。さらに言う、「学校は企業と政府のための行動訓練センター、あるいは実験施設になっていった」と。

本書を紐解けば、国家が主導するアメリカの義務教育制度がどんな危機的状況にあるかが良く分かる。そして、「今の学校教育にどれだけ多くの金や人材を費やしても、病気をさらに悪化させるだけである」と言うことも(これは日本でも同じではないか)。そこで、彼はこれからの教育方法としてホームスクールやヨーロッパでのエリート教育の方法を推奨する。日本ではさしずめフリースクールというところであろうか。

ここに、面白いデータもある。
▼マサチューセッツ州の上院議員エドワード・ケネディ事務所が発表した文書によると義務教育が導入される以前の方が識字率が高く(98%)、導入後は1991の91%が最高なのだという。
▼現在のアメリカではホームスクーリングの子どもが150万人に上り、しかも思考力は「学校に通っている生徒よりも5年も10年も進んでいる」のだとか。
▼ ジョージ・ブッシュとビル・ブラッドリーというかつて大統領選を争った二人が標準学力テスト(SAT)の言語スコアーで前者が550点、後者が480点だったと言うが(つまり凡庸な成績だった)、前者はイエール大学をへて大統領になり、後者はプリンストン大学をへて上院議員となっている。つまり、学校での「標準学力テストの結果が平凡であっても、知事や上院議員、大統領にもなれるのである。その他、ヒトゲノム計画に参加している科学者などお世辞にも立派な学歴ではなかったという例はいくらでもあるらしい。つまり、学校での評価は社会での実際の働きとはあまり関係ないのである(日本でも、東大で建築学を教えている安藤忠雄さんの学歴は確か高卒であったと思うし、優れたゲームソフトを開発し後にIT会社を設立した飯野賢治さんはもと不登校生の中退者であった)。エジソンやアインシュタインのような偉人や天才は集団的な学校教育の中からは生み出されないのである。

結論を急ごう。
結局「義務教育は人々を賢くするどころか、バカにした」。だから、「もう、学校はいらない」のだと。「学校の訓練にとらわれるか、そこから逃れるかによって、あなたの一生は決まるのだ」とも言う。
この学校教育制度と大企業が家庭を壊し、地域を壊してきたという彼の説には得心のいく部分が多い。管理と画一化を目的とする組織や制度は人を阻害することはあっても人を育てはしない。だから、彼は「国や個人アイデンティティを失わせているのは、義務教育にほかならない」と言い切るのだ。

今、日本でも安倍新政権になってから教育基本法改定の動きが活発だ。教育バウチャー制度も俎上に乗り、箍が外れてきた学校教育を今一度再生しようとしている。だが、公教育の補完と延命を図ることで今の教育の危機を乗り切れるのだろうか。

この本の著者が言っているように、本当に「もう、学校はいらない」のではないか。湯水のように金を注ぎ込んでも、浪費に終わるだけで自由で創造性あふれた教育を再生することは不可能なのではないか。これは一貫して子どもの側から教育を考察してきた私の偽らざる感想でもある。

この際、教育の再生を民間の教育力に任せてはどうかと私は思う。江戸時代の寺子屋のように民の教育力は近代国家が学校制度を作り上げるはるか以前から営々と営まれてきたのである。


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