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映像の世紀の子ども達に対する覚え書き(1)
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現代の子どもたちは「映像の世紀の子どもたち」である。生まれたときからテレビを初めとする様々な映像に囲まれた育ちをしている。昔の子ども達が活字に囲まれた生活をし、さらにラジオなどの音響に囲まれた育ちをしたとするならば、現在の子どもたちは映像を中心とする複合芸術、今流の表現をするならば「環境芸術」の中で育ってきたと言えるだろう。
映像に囲まれて育つ子どもたちはそれまでの子どもたちとどんな点で違うかというと、その第一は書物やラジオを通して伝えられた情報は良い意味でも悪い意味でも大人の価値観のフィルターを通して子ども達に伝えられたということである。活字も音響も大人が作り上げた文化的な意味を帯びて子ども達に伝達された。その意味では子どもたちは親や大人の願いに沿って育つことができたのである。
ところが、映像が中心の文化となり、携帯電話など個人の情報伝達の機器が普及するようになると、この大人と子どもとも関係がそのままでは成り立たなくなってきた。一つの映像は活字の線的な情報とは比べ物にならない情報量を持ちながら、多面的複合的で非個性的な性格を持っている。そのため、大人の情報の伝達の仕方や捉え方も絶対的なものではなくなり、ある代表的なものの見方や感じ方を代表するものに過ぎなくなった。時には使い古された時代遅れの物の見方として子どもたちの感じ方と対立することさえ起きてくるようにさえなった。もはや子どもたちへの情報伝達は大人の一元的な価値観のフィルターを経ないものとなり、あまつさえ邪魔なもの、“うざったいもの”とさえ感じるようになったということである。
言葉は解釈されて伝えられるが、映像の場合は解釈される以前の生のままの状態で子ども達に伝わることが多い。活字にせよ映像にせよ、私達が耳目で感じたり見たりする現実の一部を切り取ったものだが、活字(言葉)の場合にはどのような言葉が選ばれるかという時点において発信者の価値判断のフィルターを通過して伝達されるが、映像の場合には現実をどのような角度からどのような形で切り取るかにおいて発信者の価値判断が働くことは確かだが、映像そのものは加工されることなく伝達されるのだ。もし、そこに言葉のような加工が施されたならば、それはもはや生の映像とは呼べなくなり、情報としての価値は激減する。情報としての言葉は加工され厳選されある意味価値付けられて伝えられることを求められるが、映像の場合には限りなく生に近いことが尊ばれるのだ。
たとえば、新聞やラジオとテレビのそれぞれの報道伝達の仕方の違いを見てみればいい。どれもマスコミの伝達手段には違いないが、もっとも編集の手が加わっているのが新聞とするならば、ラジオ→テレビとなるに従い、共に編集の手を経ているとはいえより生の情報伝達の度合いが高まっている。逆に言えば、聴取者はマスコミの編集作業で改変されない生の情報を得る度合いが高まってきたということである。つまり、マスコミは単なる伝達手段となり、判断は享受者に任されるようになったということである。
もちろん、それを逆手に取り、判断は享受者が行うのは当然だという側面を強調することで、実は巧妙な形で情報操作を行い、大衆心理を巧みに操作しているという側面を無視するわけにはいかないのだが。いや、この側面は映像の世紀のこの時代、広く警鐘を鳴らしても鳴らしすぎるということはないかもしれない。実は、「やらせタウンミーティング」のように、それがあたかも真実の生の映像であるがごとく錯覚させられているという場合がなくはないのだから。
(続く)