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映像の世紀の子ども達に対する覚え書き(2)
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映像文化主流の中で言語活動はどうあるべきか
先に「映像は基本的に編集者の価値観を持ち込まず、出来るだけ生の映像であることが尊ばれる」という趣旨のことを述べたが、では、映像の世紀の申し子である現代の子ども達にとってはまずは映像が第一であり、言語活動や言語表現は二の次になるのかと言えば、決してそうは言い切れない。将来はともかく現在においては、映像と比較して以前ほど直接触れる機会が少なくなったとはいえ、人々は依然として言語で考え意思を伝達しているのであって、映像でやり取りしているのではない。人間存在における言語の重要さは少しも揺らいではいない。いな、こういう時代であるからこそ、人と言語の関係をいっそう考察して見なくてはならないだろう。
確かに今までも、映像を言語で取り扱うという試みは、たとえば映画評論とかTV評論とかという形で行われていたが、それはあくまでの言語活動の一環としてのことであった。ところが、事態は今、言語文化と映像文化の逆転の中で起きている。主流は映像文化となり、言語活動はそれを下支えするものになっている。ところが、たとえ見かけは映像主流の文化になっているとしても、人間の文化的社会的営みとして価値付ける役割を担っているのは依然として言語活動なのである。人は言語を使うことによって人となった……この原則はいささかも変わってはいない。そこで、問題は「映像文化主流の時代にあって言語活動はどうあらねばならないか、どうあるべきなのか」ということを改めて考えなければならなくなったということである。
芸術家たちは意外に早くこういう言語の役割に気付いていたようだ。昔から芸術にとって作品の題名は単なる符丁ではなかったが、現代の芸術も題名=言葉が付されていることで芸術として成立していることが多い。いや、むしろその重要性が増したと言っていいかもしれない。マルセル・デュシャンの『泉』(1917年4月)やジョン・ケージの『4分33秒』(1952年8月25日)などの前衛作品は、言葉によるタイトルを得たことで初めて芸術として成立したと言っても過言ではあるまい。
新聞やラジオのニュースであれば、我々は報道されていた言葉の一部をそのまま鸚鵡返しにするだけでも他者に情報を伝えることが出来る。ところが、映像はそうはいかない。写真やデジカメの映像でそのまま見せることもあるだろうが、多くはやはり言葉による伝達である。その時、我々は二次元や三次元の映像を言語という線的な表現に翻訳して伝えることになる。ところが今、我々の言語はそこのところで躓いている。必ずしもその置き換えに成功しているとは言えないのである。いや、ありきたりの方法では映像の持つ多面的な情報を伝えきれないのだ。
たとえば、漫画や劇画を観る。テレビを観る。あるいは、旅行で観た風景を人に語る。その時、映像は映像としてあったとしても、それをどう価値付けるか、どう判断するかというのはやはり言語表現によるのである。ところが、我々はそれを表現するのに十分な言語表現を獲得しているとはとても思えない。かつて映像以前の言語活動を主とした時代に育った人たちは必ずしも現代の映像表現に適合した言語を駆使しているとは思えないし、映像の世紀に育った現代の若者達は映像の処理には長けていても、それを的確に表現する成熟した言語を既に獲得したとはとても言えないのだ。
もし、これが現代に求められている言語能力、つまりは国語力だとするならば、我々は今、言葉の乱れ、言語能力の乏しさに嘆いて見せているだけで、解決のための方途をまだ探り当てていない。そういう中で、学校教育の外でというか、その周辺でというか、「新しい国語力」獲得のための様々な動きが始まっている。次回、その幾つかを紹介したい。