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学校とは何か……「教育」の前提を考える
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学校にやってくる実在の子ども達は多様で雑多な環境の中で生きており、二つとして同じ生計を営むことのないそれぞれの家庭から通っているのだ。だから、実際の教育は物理や科学の実験のようには行かない。たとえば、純粋培養された溶液を用いて試験管の中で化学反応を行い、データを取って推論する…教育とはそんな行為とは全く異なる。教育の対象であり教育の主体でもある子ども達は固有の生命を持った固有の存在なのだ。
だから、私にはそもそも「学校を存立させている前提条件がおかしいのではないか」としか思われない。「学校とはどういうものか」…まず、この前提条件をしっかりと考えて見なければならないだろう。学校教育法の中で学校とはどういう存在か、ということについて、実は私もしかと確かめたことがない。そこで、「学校とは何か」ということでネットで検索をかけてみた。ところがである。私の調べ方が悪いのか、学校とは何かに対する明確な解答がどこにも載っていないのである。
たとえば、『学校教育法』では
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第1条 <学校の範囲>
「この法律で、学校とは、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校及び幼稚園とする。」
第2条 <学校の設置者>
「学校は、国、地方公共団体及び私立学校法3条に規定する学校法人(以下学校法人と称する。)のみが、これを設置することができる。」
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とあるが、「学校とは何か」という問題は素通りしていて何の定義づけもされていない。これは平常なことなのか異常なことなのか、ちょっと判断に苦しむ。
そこで、「学校とは何か」について議論しているページを覗いてみたら、なんとそこは「教員養成大学」のページで、そこで教授と学生たちが「学校とは何か」とか「学校とはどんなイメージがするか」などについてわいわいやっているのである。つまり、教員を養成する大学においても「学校とは何か」ということは分かっておらず、彼ら学生の研究テーマの一つになっているらしいのだ。
だからであろうか、生徒が教師に尋ねてもはっきりした答えが返ってくることがないのは。教師達も聞かれても困るのである。ということは、今まで日本の学校教育というのはそんな曖昧な定義付けの下に営まれていたということである。一言でいえば、「学校の先生方は学校とは何かも十分に弁えずに子ども達に学校教育を行っていた」ということである。これでは学校を任された校長による学校の私物化や勝手な運営、校則決め等が行われていたとしても何ら不思議ではない。
一般に私達が学校とは何かを考える時は、学校に何か異常事態が起きた時が多いが、そういう時、綱紀引き締めの意味もあってか、校長が「学校とは何か」を内外に表明することがある。それには大きく二つあるようだ。一つは「学校は勉強をするところである」ということ。そしてもう一つは「学校は社会性を身に付けるところである」ということ。なるほど、簡潔に要点を得ていて分かりやすい。世間一般の人たちが思い描いている学校の役割を旨くまとめている。が、問題はそこではない。
問題は、その二つが果たして本当に機能しているのかということである。今回、図らずも「いじめ・自殺」や「履修漏れ」問題で明らかになったのは、今の学校教育においてこの二つとも破綻しかかっている教育の崩れた構図であった。「学校はまともに勉強を保障できるところではなくなり、人をつくるところでもなくなったと」いう、何ともやりきれない姿であった。