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学校教育と社会との関係について
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世の中の動きと学校教育とをどう連動させるべきかどうかという議論がもっとあってしかるべきだと思うが、政治・宗教からの教育の分離という建前がなかなか真正面からの論議を拒んでいる。しかし、政教の分離というのは反権力側に対するけん制であって、現実的には中立性の名の下に、為政者にとって都合のいい政治的圧力が加えられていることが多い。この現実をしかと見定めておかなければならない。
ある県の知事が「教育に中立はあり得ない。この知事を選んだということはその教育観も支持したということだ」という趣旨の発言をしていたが、それを良しとするか否とするかは置くとして、まさにその通りで、極めて正直な返答であったと思う。
学校教育というのは社会での実地訓練とのは異なり、絶えずも模擬教育であり本物による教育とは異なるわけだが(勿論、酒の肴のように専門家を招いても実際の作業を行う場合もないではないが、それもまた授業教育用に作られたモデルであるという場合が多い)、それにしても今の教育は社会感覚から隔てられすぎてはいないだろうか。
公教育の場で今、民間人出身の校長が行う「世の中科」という授業が受けているようだが、そんなことが大騒ぎになること自体が日本の学校教育が今大変おかしな状態になっていることを如実に物語っている。それに、あれ自体は学校教育の厚い塀に開けられた小さな窓に過ぎないのではないか。そもそも「世の中科」の授業を始めようとしたきっかけは、社会の「公民」の教科書を見て、「これでは社会のことは何も分からない」というように感じたことがにあるらしい。
壁を全て取り払い、教育を社会の寒風に直接晒すべきだという乱暴な論は立てないが、もっと社会の空気が自由に入ってくるようにすべきではないか。今、温室育ちの若者が大量に輩出され、なかなか社会参加が出来なくなっている現実があるが、それはその若者の責任というよりは周りの大人の責任ではなかろうか。
実際の社会では、社会科の授業で行うような純粋培養的なモデル通りに物事が進んでいるわけではない。様々な矛盾が渦巻き、権謀術数が飛び交っている。だから、子ども達からは恐らく無数の「何故?」が発せられることであろう。その全ての疑問に大人たちは納得のいく形で答えられるだろうか。それは出来ない相談だ。決して子どもに正当化できるものではないかも知れないが、そして、子ども達からは醜いとか汚いとか言われるかもしれないが、試験管の中での実験のような訳には行かない、大人には大人の苦しい事情があるのである。
しかし、いつの時代でも子どもたちの「何故?」がこの社会を前進させてきたのである。また、大人たちも全てに回答を出せなくても恥とする必要はない。そこから自身の学びと教訓を引き出せばいいのである。人類はみな修行の身であり、発展途上の人なのである。