ギュンター・グラス氏の自伝から思うこと


ギュンター・グラス氏の自伝から  ■ 〜文学とは何か〜 2006/10/23

ドイツのノーベル文学賞作家ギュンター・グラス氏(78)が、自伝「たまねぎの皮をむきながら」の中で、彼が第2次世界大戦中にナチスの武装親衛隊に所属していたことを告白しているという。そのことで一方では激しい非難が起きていると同時に、自伝本への注文が殺到しているという。

晩年になってついに秘密にしてはおけなくなったということなのか。自分の人生に対する清算行為の一つかもしれない。

軍人や政治家や医学者(731部隊を想起せよ)や教師だけではなく文学者も自国の戦争とどう切り結んだかということはしばしば取り上げられるテーマである。日本人の場合も決して例外ではありえなかった。その筆によって多くの若者を戦地へ死地へと追いやったかも知れぬのである。文学者もまた時代を生きているのである。だが、文学はそれだけのものだろうか。

対独協力者ということで戦後獄中生活を送ることになったセリーヌ(ルイ=フェルディナン)というフランスの作家がいる。言わば歴史上から抹殺されたような作家である。だが、彼の『夜の果てへの旅』『なしくずしの死』などは私の読書のコレクションから削ることはできない。他には還元できない作品なのだ。

それと同じように、グラスの『ブリキの太鼓』もまた私にとっては何物にも置き換えできない作品である。今後、グラスがどんな歴史上の評価を受けるのか分からない(これまではナチス批判の代表者でもあった)が、作品そのものは不滅の光彩を放っている。

今、欧米ではナチスを容認するような発言はタブーである。犯罪である。これは「マルコポーロ」事件に見られるように、日本でも例外ではない。ユダヤ人へのホロコーストがあったのかなかったのかと検証することさえ難しいようだ。南京大虐殺はあったのかなかったのかという問いと似ているかもしれない。

確かに文学は他の芸術と同じく時代の制約の中で花開く。芸術家もまた時代の子なのである。しかし、泥沼に根を張っているからこそ蓮は美しい花を開くのだ。梶井基次郎の言ったように、地下の根がネズミやその他の動物の屍骸に絡みついているから桜の花はあんなに美しいんだ、という見方をするのが芸術である。芸術は時代の制約の中で生まれながら、もっと本質的な、時代の制約を超えたものを表現するのである。

だから、今回、グラスがたとえナチスの武装親衛隊のメンバーであったとしても、文学者としての彼の評価に何ら変更を加えることはあり得ない。右翼だの左翼だの、革新だの反動だの、そのように評価するのは周りの政治的人間であって、芸術行為は基本的にその基準で動くのでは決してない。これが芸術に対する私の姿勢である。

そして、このような姿勢は教育の場合にも変わらない。そういう姿勢で子ども達の教育の問題に取り組んで行こうと思う。

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