2006/11/03
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 いじめに関するテレビ取材に応じて   

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もしかするとテレビでご覧になった方がいらっしゃるかも知れませんが、一昨日(10月31日)にTBSのカメラが入りました。今までにも何度もテレビ局が取材したいとの依頼が舞い込んだことはありましたが、私達は活動を宣伝するのが目的ではないし、子どもたちを特殊な存在としてカメラの視線に晒すようなことは極力避けたいという方針で来ました。でも、今回だけはTBSから依頼があった時、あえて断りませんでした。

それはこのままでは今学校という教育現場で何が起きているか結局曖昧なまま終わることになるのではないかという危惧があったからです。今、いじめ・自殺ということが相次ぐ生徒の自殺によってクローズアップされていますが、「いじめとの因果関係は分からない」から「いじめがあったかどうか分からない」さらに「いじめはなかった」というように、常人の感覚で見る限り全くあり得ないような隠蔽工作が進んでおり、かえって教育の世界の不思議さを強く印象付けもしています。しかし、呆れているだけでは何も解決しないし進展もしないのです。

果たしてこんなことでいいのかという思いがありながら、強引に沈静化を図ろうとする学校現場。この壁を破るには学校の外部にいる生徒、もしかするといじめによって学校に行けなくなってしまっている生徒がいるなら、そういう生徒に聞く方がいいのではないか…そう考えたのかもしれません。とにかく、テレビ局はフリースクールに焦点を当て、フリースクールに通う子ども達に話を聞いてみようという企画を立てたのです。まず、学校で言っている「いじめはない」という嘘を暴く必要があります。そのためには、そのことを立証してくれる生徒が必要なのです。そこで、テレビ局が取材に来る前に、実際に協力してくれそうな何人かの生徒に当たってみた結果、数人からOKが取れました。また、その伝手で取材に応じてくれる人も現れました。

当日、初めて説明を受けた生徒達には戸惑いの色もありましたが、嫌な人は映像にもしないし取材もしない、モザイクもかけるし音声も変えるということを告げて納得してもらいました。その中で絶えず逃げ回る子がいましたが、それはこの子の立ち直りの度合いをそのまま反映していただけでなく、「変に見られることを気遣う」親心そのものの振る舞いであったようにも見えました。図らずも私達は、こういう「いきなり、突然」の出来事において、その本性を晒すことになるのです。
平家物語の中に、島流しにあった3人がいた島にある時、都の使いがやってきて2人を許し1人を残すという通達を告げます。そして許された2人が船に乗って都へ帰ろうとする時、残された俊寛の嘆きの言葉があります。「足摺り」の有名な場面です。3人で助け合おうと硬く誓い合った友情もこの現実の前には簡単に砕け散ってしまうのです。

悲しいことですが、そういうことがあるのが人の世界です。そしてそれが子ども本人によってではなく親の思惑によってもたらされるのです。そしてそれを他の子ども達が眼前で見てしまうのです。「そこまで逃げなくても…」とテレビ局の人も驚いていました。テレビに映ったことが知れることがそんなに怖いことなのでしょうか。(この問題に関してはまた別のところで語りたいと思います)

そういうことはあったものの、「もし自分の喋ることが少しでも学校でのいじめ防止に役立つならば…」と言って積極的に応じ、顔が映ることも厭わなかった子をはじめ何人かの子が自主的に取材に応じてくれました。それはいじめによって学校に生きる場をなくした子ども達が、フリースクールに自分を生かす場を求めてやってきて、自分作りに励んだその成果を示している姿にも見えました。カメラの目が「公」を象徴するものならば、その取材に動じずに応じたということは、もはやその子が社会のどこに行っても自分らしくいられる第一歩が築かれたことを意味しているように見えました

フリースクールから今の学校教育を見たらどう見えるでしょうか。学校では「いじめはない」と言うけれども、フリースクールに来ているほとんどの生徒は過去にいじめ体験を持っています。学校は文科省の設置した数値目標を形の上で実現すべく、あったこともないと言い含めて、「いじめはゼロ」などと言うけれども、フリースクールに来ている子ども達は全員が「それは嘘だ」と見抜いています。嘘に嘘を重ねて取り繕っている学校や教師の姿を彼らは見ているのです。その子ども達がテレビカメラの前で堂々と自分たちが受けた事実を語ったのです。中には失明するほどの怪我をした自分を誰も受け入れてくれなかった現実を切々と語りもしました。だたひたすら学校でいじめがなくなることを願って。それでも学校では「いじめはなかった」と言うのでしょうか。