2007/02/04

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  情報過多の時代の子どもたち

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新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、携帯電話…今、世の中はまさに情報化社会のに突入した感がある。目に見える情報や映像だけでなく、デジタル化し、電波となって、夥しい数の情報は飛び交っている。そして、現代の子どもたちはそれが初めから存在する世の中に、あることが当たり前の感覚で育ってきている。現代の子どもたちは情報化社会の申し子なのである。

情報化社会の特徴として、インターネットのグーグルに代表されるように、ある情報が欲しければそれを得るための手段が飛躍的に拡大し、情報の入手がかつてと比べて格段に容易になったということがある。まだ途上ではあるが、そのための情報のデジタル化が日に日に進んでいる。かつては調べることが困難な情報であったものも、今ではデジタル化した情報となり、瞬時のうちに取り出すことが出来る。今では情報は最初からデジタル化されているのが当たり前ともなっている。

このことで勉強の質も従来とは大きく変わってきた。3年も経てば情報が陳腐化する現代にあっては、記憶型の勉強はもう意味がなくなりつつある。一つの体系的な勉強を終えた頃には、個人が頭脳に蓄えた情報はもう半ば役に立たなくなっているということもあり得るのである。かつて大学の中には、いつ書いたのか分からないような古びたノートを抱えて学生に講義している先生がいた。あまつさえ、講義に必要だからと売れない本まで買わせたりもした。だが、今はそんな教師は存在し得ない。情報だけ見れば学生の方が入手が早いかもしれないのである。

まだまだ日本の社会は全てがそこまで行っているとは言えないが、今後は記憶型の勉強ではなく思考型の勉強が主流となるのは確かだろう。記憶型が全く駄目ということではないが、それは創造的に考えるための土台・基礎であって、本来の勉強は考える力を養うことに向けられるであろう。今、国際間の学力比較で日本の教育の在り方が問題にされているが、今の日本の教育のやり方で国際競争に堪え得る思考力が養えるかどうかということが問われている。日本の教育改革はそこにこそ焦点を当てるべきであろう。

ところが、教育を施されるべき当の子ども達の様子を見ると、それを育成する教育システムの問題と共に、考え直さなければならない大きな課題があることに気付かされる。たぶん、多くの人たちは今の子どもたちが情報化社会の中に生まれ育ち、情報の行き交いを空気のように吸って来たのだから、定めし情報化社会に相応しい資質を持って育っているに違いないと思っているはずである。ところが、事態は意外な問題を我々に突きつけている。

たとえば、テレビを例にすれば、かつては数チャンネル、最近まで関東でも6〜7チャンネルが普通であった。ところが、今は多チャンネル時代、数10チャンネルというのも珍しくない時代になった。でも、実際の生活の中で子どもたちには学校やその他での活動があり、24時間テレビの前にへばりついているわけではない。そういう中で、子どもたちの寄せる興味・関心は、家庭と学校、習い事や趣味的行動など極めて限られたものとなっている夥しい数の多チャンネル時代にありながら、子どもたちの情報を得るための視野はとても限られており、しかも細分化されていて同世代だからといって共通の話題を共有しているということにはならない

さらに、テレビを見たりラジオを聴いたりするためには、受像機・受信機が目に見えず流れている電波の周波数に合わせなければならない。ところが今の子どもたちは、見た目の技術ではリモコンを操作し、パソコンでネットサーフィンを行い、メールを打ち、チャットをしたりと一見多彩でありながら、その実持っている周波数は極めて少ないのである。だから、どれだけたくさんの電波が飛び交っていようとも、受信できる電波は限られている。つまり、外部を理解することとは自己の感覚器を通じて情報を受信・発信することだとするならば、彼らが持っている興味・関心・思考の回路はとても貧しく弱々しいものだと言わざるを得ない。

これが、情報化社会を生きる子どもたちの現実の姿である。感じ、思考し、発信する回路がとても狭く貧しいのである。こういう子どもたちに、今の時代に相応しい、多様な価値観に対応できる教育を施さなければならない。それが「愛国心」だの「社会規範」だの旧来の方法を踏襲した教育方法だので十分に応えられるものかどうか、それが問われている。その意味では、現在の教育改革の動きにはとても悲観的である。その先に日本の未来を切り拓く新しい教育像があるようにはとても見えないのである。