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受信文化から発信文化へ
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今までの日本人の国語の力は受信力をはかるものだった。それは日本人の知的営為のあり方として遠く夏目漱石以来批判されてきた「接木文化」行為そのものであった。そしてそれは現在に至るまで、基本的に変わりはなかったのである。だから、「一方、欧米では…」というような表現が日本文化や日本人の言動を批判する常套句としてもてはやされたのである。
この方式は、まだ数十年前のことだと思うが、日本にパソコンが本格的に導入されるまで日本人のインテリ層にベストセラーとしてもてはやされた梅棹忠夫の『知的生産の技術』でも変わりはなかった(あの本自体はそういう発想からの脱却を唱えていたものだと思うが)。それまで、日本人にとっての知的営為とは、すなわち情報の受信者として如何に欧米の情報や文献を読み解く力を身につけるかということに他ならなかったのである。
だから、その当時、インテリゲンチャとか大学人と呼ばれた人たちは、欧米の知識を受け売りするか、その見識を持って日本の現状を批判し断罪することをもってよしとした。評価される教養とは、だから、日本に移植されたか接木されたか、切り花として即席に用意されたか、いずれにせよ外国から導入されたものであり、日本の過去や伝統に根付いたものではなかったのである。
しかし、それは情報がまだ一般に広く流布していない時代の産物でもあった。情報の多くは外国に詳しいインテリや大学人、あるいはマスコミなど、ごく限られた人間にしか委ねられていなかった時代の現象でしかなかった。だから、言い換えれば、権力によって情報や知識の寡占が可能であった時代の産物でもあった。第二次世界大戦の間、権力やマスコミが情報を独占できたのもそういう時代背景によるものである。
しかし、パソコンが普及し、インターネットが普及するようになってくると、この事情がかなり変わってきた。権力やマスコミによる情報や知識の寡占が不可能になったばかりでなく、かつての上から下への一方通行による情報伝達から1対多だけでなく1対1の情報伝達まで含めて上から下へ、あるいは下から上へ、双方向の情報や知識の伝達が可能になったのである。そして、それらは瞬時にして地球を駆け巡ることも可能になったのである。かつて十年一昔のごとく古びたノートを抱えた教授の授業も可能であったが、今や情報の入手だけを問題にするなら教授よりも学生の方が早いということも可能になったのである。
時代がそうであったから、人々の「知」のあり方として何を求めるかということに関しても、「受信された情報や知識を読みとる能力」が何よりも尊ばれた。欧米から輸入された知識や考え方をどう噛み砕いて若い学生に伝達するか…それが大学知識人としての欠かせない役割であった。だから、大学人としてそういう役割をどう卒なくこなしているかが重要なのであって、その人自身がどうかということはあまり問われることはなかった。全共闘運動が全盛の時代にあって、大学人としての存在のあり方が俎上に上ることはあったが、それでも教授が学生に知識を授け、薀蓄をたれるという図式そのものに何ら変化はなかったのである。
しかし、インターネットの時代に突入して--ちょうどNECのPC88シリーズや98シリーズが出回り始めた頃が大きな転換点ではなかったか--情報の伝達方式や知の獲得形式が大きく変わり始め、それまで一方向であった大量伝達常識が徐々に双方向のものに変わっていったのである。それは知や情報の寡占システムへの大きな風穴となった。世界のネットニュースへの接続、ニフティやビッグローブのBBSもそうして成立したたものであった。
そして、今や我々はまだまだ未熟ではあるが双方向システムが当たり前の世の中に住んでいる。もはや権力による情報の独占や知の寡占は不可能であるし、大衆への一方的な情報操作も不可能となったかに見える。もちろん、そこには絶えず新たな操作の罠は巧みに仕掛けられていて、ジョージ・オーウェルが『1984年』で思い描いた様な極めて高度な管理社会という近未来が訪れる可能性はないわけではないが、少なくとも情報伝達や検索の手段を持たなかったがために一方的に情報や思考を操作されるということはなくなったわけである。
問題は、今やその先にある。我々は今という時代に相応しいリテラシーを持たねばならぬということである。一方にまだ「鰯の頭も信心から」というレベルで知的営為を行っている人たちがないわけではないが、問題はそういうものの真贋を見抜ける眼力を持たねばならぬということだけではない。そういう受信者としての能力だけではなく今後は発信者としての能力が一人ひとりに問われているということである。
ここしばらく、私は「新しい時代の国語力」「映像の時代の国語力」というようなテーマで書き続けてきたが、その大きなテーマの一つはマルチメディアを基調とする「インターネット時代の国語力」というものである。そこでは人間の言語活動も--人間が人間として存する活動の根幹をなす活動であることにいささかの変動もないが--全体的な人間の活動の一部をなすものに過ぎなくなる--その良し悪しはおくとして--かもしれない。いや、見方を変えるならば、こういう時代だからこそ、我々は今一度人間の言語活動のあり方を考え直さなければならないのである。
そういう意味でも、今後このブログでは「映像の時代の新しい国語力」というものについて、引き続き問い続けてい行きたいと思う。