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どうすれば「考える国語力」を身につけられるか
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---- 薮にらみ読書論 『中学受験の国語論』書評----
本の腰巻に
「かつて個人塾で、1000人以上の入塾待ちの生徒がいるカリスマ国語塾があった」「あの和ゼミナールの読解問題の解法をここに紹介!」とある。(武本貴志著、監修:若尾直人、株式会社語研、1400円)
ちなみに、監修者は和ゼミナール創設者、著者の武本氏はそこの卒業生だという。
時々書店に出向き、好きな本を漁るが、小学生の参考書のコーナーで本書を見つけて、「ああ、そんな評判を呼んでいた国語塾があったなー」と、やはり若い頃、御三家指導など進学塾で国語を中心に教えていたことなどを懐かしく思い出した。
一般に、
塾での進学指導においては、中学受験では算数、高校受験で言えば英数の指導が中心で、勉強すれば勉強するだけ目に見えた成果が確認できる学科の指導に人気があり、国語と言う科目はなかなか数値化した評価をしにくい科目として、塾教師の中でも敬遠されがちである。「国語は勉強してもすぐに出来るようにはならないし、やらなくても全く0点ということはない」というのが一般的な見方。ただし、数は少なかったが優れた指導力を持った教師がいて、そういう教師の指導と国語を間に合わせで教えている教師の指導との間には雲泥の開きがあったのも事実である。もっと言えば、
国語の指導は教師の資質・能力に深く関わっている。逆に言えば、数学や英語などの科目は、心得さえあれば、誰が指導しても大した方法論を持たなくても、それなりの成果を出せる科目でもあるのだ。
だから、雨後の竹の子のように次々を学習塾が誕生した時代には、英数の塾では誰がやってもそれなりの成果は出せたし需要もあった。ところが、「国語塾」というのはまず生徒がやってくるかどうかも分からない。もし集まってきたとして、その生徒達一人ひとりに果たして満足のいく成果を出せるかどうかも定かではない。英数であれば、出来なければ生徒の努力不足のせいにもできるが、国語の場合にはなかなか英数のように定式化できない。本人の資質がかなり物を言うところがあり、努力不足だけでは説得力に乏しいのだ。だから、そこに父母との余程の信頼がなければ自立は難しいことなのだ。そういう中で、
今はやりの言葉で言えば「行列の出来る国語塾」をやっていた和ゼミナールは多くの国語教師にとっては羨望の的でもあったのである。「国語なんてやらなくても何とかなる」という風潮の中で多くの国語教師は肩身の狭い思いをしていたのだから。だから、その繁盛の秘密はどこにあるのか、ということが関心の的でもあったのである。
だから、本書を手にした時、遅ればせながらその秘密を知り、自分が進めている国語を含めた
「子どもの視点からの学びの方法の確立とその再確認」のために役立てたいと思ったのである。
紐解いてすぐに「ああ、やはり」と気付いたことだが、
この本は我が子の受験・進学を望む親御さんに特化した本だということである。間違っても「これを読むことによって将来優れた作家や詩人が生まれてくる」という類の本ではない。第一に本書では日本の学校の国語教育に特徴的な文学に傾斜したやり方は取らず、あくまでも国語の文章を正確に理解するための方法論=「精密力」をつけることに力が注がれている。つまりは受験突破に特化した国語力の育成である。だから、将来、文系・理系に限らずどんな文章の理解にも役立つ力を身につけられるとも言える。逆の見方をすれば、
学校でやっている書かれた文章を理解するという国語力の育成は結局何の成果も挙げられないという現実を暴露しているとも言える。
本書で取り上げられている国語力とは、繰り返えしになるが、受験の国語力ということだが、その
要は「課題文」を理解するための「設問」を解く能力を磨くことである。
ここに学校の国語教育と和ゼミナールが目指す国語力との大きな違い、ズレがある。学校では読み書き力の育成と文学に触れさせる指導をするが、
受験の国語力では「課題文を理解させる」ことよりも「設問」の種類を見分け「設問」の解き方を身につけることを目的とする。
なるほど…、受験生や受験突破を最大の目標としている親御さんにとっては説得力のある言い方かもしれない。このやり方に従えば確かに当面の目標である受験突破の技術としては役立つかも知れない。そしてやがては様々な文章や論文や文献を読み解く力も付いていくかもしれない
。「国語なんて勉強したって…」という愚かな声にも応えられるかもしれない(それだけでも大したものだが…)。だが、今日本で問題になっている子どもの「学力低下」「国語力の低下」「生きる力の低下」「考えない子ども達の大量生産」…という教育の根本問題にはほとんど答えていないというのが私の見方である。
そのことについて、著者は本書の最後で次のように言う。
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「ただし、いくら理屈をつきつめても感性には勝てません。理屈で考えるのは面倒で時間もかかりますが、感性で解く人は苦もなく瞬時に正解を求めるのです。また、「その子自身がつちかった感性を傷つけてしまう」という意味で、感性のすぐれた子どもに理屈を押しつけるのもよくないと思います。
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あえてこう言っているということは、著者がそういう経験に遭遇したことがあるということだろうか。つまるところ、
本書の役割は「不足している感性は理屈で補い」、努力さえすれば誰でもが受験を突破できる力を身につけることが出来るという点にありそうである。
だが、
あえて言う。これは私が求める国語力、考える国語力、創造する国語力ではない。私の「遊びの教育学」でも述べ、また、『9歳の壁』でも触れたと思うし、いろいろなところでも述べているが、
国語力を養う土台として体験に裏付けられ無意識の領域にまで広がる「感性の器」をつくる試みが欠かせないと思っている。それは単に小手先の技術に留まらず、先進文明社会における文化論的な領域にまで及ぶ話だとも考えている。