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子どもの目からの「学校評価」
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教育再生会議では、「外部評価による学校評価」の実施が検討課題としてあがっているそうである。学校評価には、学校が自らを評価する「自己評価」と、学校外の者(機関)が評価する「外部評価」の二つがあり、さらにこの外部評価は、子ども、保護者、地域住民など学校に関わる者が行う「当時者評価」、教育委員会などが行う「設置者評価」、専門家など第三者機関が行う「第三者評価」の三つのタイプに分かれる。
文部科学省の2004年度「学校評価及び情報提供の実施状況調査」の結果によると、現在公立学校の9割以上が自己評価、約8割が外部評価による学校評価を実施しており、自己評価による学校評価が望ましい「努力義務」とされているようである。ところが、安倍首相や下村博文官房副長官などは、英国の学校評価制度を教育改革のモデルと考えているという。
私は「学校の外部評価」には基本的に賛成である。学校でのいじめ隠しや未履修問題に見られる学校の受験予備校化や学校教育そのものの問い直しを含め、学校自身による「自己評価」だけでなく学校外の機関による「外部評価」が不可欠だと思っている。我が子が学校に通い始めてから起きた問題等で、どれほど辛く悔しい思いをしてきた父母が多いことだろうか。それに「問題児は学校でつくり出される」といっても過言ではない側面もある。だが、外部から学校を評価する機関がない限り、学校は無謬性を自認し自らを省みることはないのである。
とはいえ、新政府の教育再生会議が掲げる「学校の外部評価」のあり方を手放しで喜ぶわけには行かない。今や教育行政の至るところから噴出している上意下達に基づく教育システムの弊害を温存するだけでなくさらに強化しさえしかねないからだ。たとえば、教育委員会などが行う「設置者評価」などはその典型であろう。もし外部の評価制度を導入するというならば、いろいろ問題はあるだろうが子ども、保護者、地域住民などが行う「当時者評価」の方法を欠かすことは出来ないだろう。確かに、この「当事者評価」には住民エゴのようなものを払拭できないのではないかという懸念はある。
しかし、学校の設置者が誰であろうと、またそれが小学校・中学校・高等学校・大学のいずれであろうと、教育を受けるのは生徒あるいは学生という子ども達であり、その費用を負担しているのはその保護者達である。その存在を抜きに教育を語ることが出来ないはずである。国家の教育活動もまた家族の委託に基づくものであり、子どもの学習権を保障するためにあるものだからである。そこで、教育の受益者たる子どもから見た教育ということで、一つのエピソードを紹介したい。
私がまだ二十代の頃、ある進学塾で仕事をしていた時、子どもたちが自主的に何回か面白いアンケートを実施したことがあった。それは子どもたちが行った塾の教師達に対する人気投票であった。そして彼らはその結果を廊下に張り出したのである。いわく、「私達佐久間アンケート株式会社はアンケートの結果、先生達がいかなる迷惑を受けようとも一切の責任を負わないものとします」と。塾の生徒達が気晴らしに面白半分で塾の先生の人気投票を行ったのである。そしてその結果を彼らは棒グラフにして廊下に張り出したのであった。
これは生徒達による塾の先生の人気投票であるが、「学校評価」に置き換えるならば、これは「当事者評価」に当たる。この評価方法については、特に現場の教師からの批判がある。どれだけ評価が正確か、信用できるか、エゴではないかと。多分、教師たちは普段生徒を評価していながら、自分達が逆評価されるのは嫌なのであろう。それこそエゴであろう。
だが、塾での場合でもそうだったが、確かに各個人の恣意的な評価基準や好みによる評価のぶれはあるが、受益者全体という視点から見た場合に、意外なほど的確な評価になっているのである。塾の場合で言えば、生徒にダメという評価を下された教師はやはり客観的に見て問題のあることが多く、大抵の場合、次年度の契約時には姿を消していたのである。塾の子どもたちは家計のやりくりを目にしながら塾に月謝を払っている子どもたちであり、好みの違いはあるとしても決して遊びで投票したのではない。そこには教育を受ける者としての教師に対するシビアな眼差しが働いているのである。私の場合、このアンケート調査を二度経験したが、幸いなことに二度ともトップの成績であった。
だから、今回、安倍政権下の教育再生会議が「外部評価による学校評価」を持ち出したこと自体には決して反対ではない。大学などでは既に多く導入されていることを考えれば、遅きに失したという感じがしないでもない。しかし、それは間違っても上からの評価や査定であるべきではない。文科省が各教育委員会を評価し、各教育委員会が各学校や校長を評価し、各学校の校長が配下の教師を評価するシステムを取るならば、それは百害あって一利なしである。それは今回露呈した沢山の責任逃れや隠蔽工作のように日本の教育の混迷の度合いをさらに深めるだけである。
そうではなくて、まず第一に「当事者評価」を設定すべきである。当然、教師からの反発が予想されるが、教育委員会や校長からの査定を嫌い教師達が「まずは現場の教師の声を訊くべきである」と言うならば、教師達もまた子ども、保護者、地域住民などが行う「当時者評価」を尊重すべきである。繰り返すが、現場の当事者の声を聞かずして教育の改革など実現するはずがないのである。気まぐれな子どもの評価と言うなかれ。それは子どもに限らず大人の場合も同様であろう。
子どもこそは教育の当事者であり、教育の主体者であり、教育を受ける権利の体現者なのである。日本の教育は今まで「子どもたちのために」という美名の下に「子ども不在の教育行政」がまかり通ってきた。今こそ日本の教育は、そのようなパターナリズム(paternalism)に彩られた教育から脱する時であると私は考える。それが可能となるかどうか、そこに教育の展望がかかっている。