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いじめ・不登校に悩み苦しむ子どもたちへのアピール
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前に一度、子どもたちへのアピールをしていたが、再度いじめ・不登校に悩み苦しむ子どもたちに向けて呼びかけたい。
いじめで自殺する生徒が相次いでいる。何とも痛ましいことだ。もしかすると今後も起きるかも知れない。いじめる方が悪いのに決まっているが、「自殺する気持ちがあるならなぜ逃げなかったのか」とも思う。聞くところによると、いじめで自殺してしまう子どもは命が危ない、もう持ちこたえられないと分かっていても学校に行ってしまうのだとか。学校はそうまでして行かなければならないところなのだろうか。
逃げるのは卑怯ではない。それ以上頑張ってもそこに自分を生かせる場がないと見極めたならば、逃げて自分を生かせる場に行くことはとても大事なことだ。それは屈辱でもなんでもなくむしろ誇るべきことである。宮本武蔵は剣豪で知られているが、彼がそう呼ばれるようになったのは、生き延びたからである。自分を生かすために、剣豪武蔵も逃げたのある。命を無駄にするのは無謀というものである。
だから、死を考えている子どもたちよ、逃げるがいい。思いっきり逃げることだ。本当に自分を生かすために!そして、もっと自分を生かす場を探すがいい。死んで花実が咲くものか。「頑張れ!」なんて、無責任な大人のたわごとに過ぎない。そう言うなら、いじめのない場をまず用意すべきであろう。だが、人の世の中、そんな場所がどこにあるだろう。
いじめだけでなく、不登校生の場合もそうだが、いたずらに自分の命を危険に晒す必要はない。自分を生かす場を探せばいいのだ。フリースクールという場はそういう子どもたちの集う場なのである。
断言していいが、「フリースクールに来ている子どもたちは絶対に死なない」。なぜならフリースクールの子どもたちは危険から逃げる術を知っているから。それに、人が死を選択するのは生きるエネルギーがスポイルされてしまっているからである。生きようとする意欲が失われてしまっているからである。自分が生きていると感じられないからである。自分の命なんてどうでもいいいと思うからである。つまりは、自分の生命が価値あるとは思えなくなるからである。でも、フリースクールに来る子どもたちは自分の命がどれだけ大切か知っている。同時に他人の命もまた大事だということも。だから、フリースクールの子どもたちは絶対に死なない。
もし、自分の命が掛け替えのない大切なもので、無数の見えない糸によって他者・他の生命と繋がっていると実感できたなら、どんな困難な状況に置かれようと、人は絶対に自ら死を選ぶことはないだろう。きっとその人は「自分が生きていていいのだ、自分は生かされているのだ」という声を聞いているはずである。それは無条件に自分の存在を承認してくれる「イエス」という愛の声である。フリースクール・ぱいでぃあもそれを実践している子どもたちの一つの居場所であり活動の場所である。苦しんでいる子どもたちよ、迷うことなく扉を叩いてみるがいい。きっとそこにあなたを受け入れてくれる場があるはずだ。