2007/01/13
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 古典的授業法の終焉…林竹二さんの授業から

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林竹二と灰谷健次郎との対談から

私の管理するネットの掲示板に、灰谷健次郎さんとことそして林竹二さんから学ぶ会を催す旨の書き込みがあった。出来たら広めて欲しいとのことらしい。

このお二人はもう既にこの世にはいない偉人であったと思う。ただ偉人とはいっても雲の上にいる畏れ多い存在という意味ではなく、もし側にいればその人たちが暇であったなら縁側で一緒にお茶でも飲みながらゆっくりとお話でもしたかった…そんな尊敬すべき人であったということである。

灰谷健次郎さんについては氏が『兎の目』という作品を書いて本格的に作家としてデビューしてからであった。子どもに寄り添い、子どもの鋭い感受性、楽天性、無限の可能性に教えられたという作家であったと思う。

林竹二さんに関しては、神様的な存在として自身の鏡としている教員も多いのではないだろうか。宮城教育大学の学長としてだけでなく、ギリシャ哲学の研究者として、また数々の実践、言行、書物などによって教育関係者にはよく知られている。だから、今回書き込んだ方も「現在、福祉の仕事をしていますが日本の福祉制度や介護の理念が大きく変わろうとしている時に、再度、林竹二さんを学ぶ意義は大きいと思います。子どもの自殺は、決して他人事ではなく、大人がやらずにきたことの結果に思えてなりません。」というように、改めて林竹二さんから学びたいと思ったのであろう。

私も両氏から多くのことを学んだ。優れた二人の対談集も出版されている。「授業は子どもの心にドラマを起こすことである」「授業の前と後では変わっていなければならない」「本当の教育は教壇を下りたときから始まる」…等の言葉は、今なお私の奥処に生きている。だから、書き込み者の熱い思いはよく分かる。かつて私がそうであったように、大いに先人から学んで欲しいと思う。特に林竹二氏を慕う教員達が記録した数々の映像からも学んで欲しいと思う。書物からは決して得られない生きた言行録がそこにはあるからだ。そこから学ぶために、林竹二の記録映画の上映会に何度か足を運んだ私であった。

しかし、私自身はもはや彼らから学び、彼らの後につき従おうとは思わない。それは年齢のせいもあるが、それ以上の理由がある。それは林竹二さんの言行はそれがいくら優れていようともそれは「古典的教育法」に基づくもであるということである。残念ながらそれは既に耐用年数を過ぎた過去の教育法であると私には思われるのである。

確かに、戦後の教育基本法についても、改訂する前に「どれだけそれを現場で実践したのか」という問題は残っていて、必ずしも教育法に還元できるものではない部分があるのは確かだが、理想としては優れていても実践不可能なものとして改訂の波に飲み込まれざるを得ないものであったのもその教育法自身が持っている限界あったとは言えまいか。

では、「古典的教育法」ではない新しい教育法とはどんなものか。それは……。おっとっと、それはやはりハウツーものとして聞けば「私にもできます」という類の簡便なものではないのではなかろうか。とかく教員達は手っ取り早いハウツーものを上に求めがちだが、それが今までの教育をあらぬ方向に導いた元凶の一つではなかったろうか。

今こそ、それぞれの教員が子どもたちと交わる教育の現場から実践に耐えうる理論を組み立てていくべきではないだろうか。「そんな時間はない…」という甘えた泣き言は聞きたくない。先人の多くもそういう現実と格闘する中から次代に繋がる理論を生み出してきたのである。もはやギリシャ・ローマ時代のような有閑貴族の机上の論から何かが生み出される時代ではないのである。

なお、以前に林竹二さんの「古典的授業」(伝統的授業風景)について書いたことのある記事があるので併せて紹介したい。参考までに。
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/jyugyoufuukei.html