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教育とは何か…“個”と“公”の結びつき
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よく“自分探し”という言い方がされる。あたかもここにいる自分は仮の姿であり、本当の自分はどこか遥か彼方にいると考えている人がいる。カールブッセの詩が“山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う…”と上田敏の訳詩集『海潮音』で紹介されたように、古来日本人は幸福というものについてそういう発想を持っていたようだ。
しかし、スマップの“世界でただ一つの花”の歌詞にもあるように、自分探しをしようとしまいと、個人というものは誰でももともとこの世で“only one”の存在なのだ。それをいみじくも証明したものにメーテルリンクの『青い鳥』という劇がある。“幸福”を求めて旅立った子どもたちは様々な彷徨の後に、何のことはない幸福というものは自分たちの足元にあることに気付くのである。つまりは、自分という存在を掛け替えのない固有の存在であると認識することがまず大事だということである。
そこでまず、フリースクールはどういう性格の存在なのか考えてみたい。というのは、学校教育が“公”の教育を行う場であるのに対して、フリースクールは“個”の教育を行う場である、という“誤解”が一般にまかり通っているからである。確かに、主として日本では、フリースクールは学校に行きたくない子や学校に行けなくなった子どもたちの受け皿となっている。そして、フリースクールの“フリー”とは何よりも学校教育という国家を背景とした擬似的な“公”教育からフリーになるということを意味している。だから、フリースクールとは子どもたちの生きる現実から、子どもたちの目線から教育を紡ぎ出していこうとする“個”を尊重する教育機関であると言ってもいいかもしれない。
しかし、ここで言っておかなければならないことがある。それは「個を追求する勉強の行き着く先は出口のない袋小路である」ということである。「えっ?」と思われる方はちょっと一緒に考えていただきたい。教育の根本は他者と繋がるための極めて人間的な文化的行為なのである。ところが、個の追求の果てにあるのは、そのような連関からは遠く離れた自我の蟻地獄の世界に他ならない。
たとえば、子どもたちに人気の「恐竜展」で話題なのは「恐竜から鳥への進化」ということだろうか。もしその説が正しいとするならば、恐竜から鳥へと進化する過程において、何と無数の進化の袋小路があったことかを考えていただきたい。鳥への進化の道筋に繋がったのはその中の一つにしか過ぎないのだ。他の進化は…たとえば子どもたちに人気の肉食恐竜ティラノザウルスなどの進化は…すべて出口なしの行き止まりであったのだ。
これは生物の進化の場合の袋小路の例であるが、教育という営みにおいても、個的な知の追求は「知の袋小路」という袋小路に行き当たるということである。そして、このような知的営みは決して「教育」と呼ぶことは出来ない。教育という営みの根本には、それによって人々がいかに「社会性」を獲得するかということがあるからである。
実は、日本の教育は“公教育”と謳っていながら、“公”的(パブリック)な教育からは程遠い学びを子どもたちに強いてきた。それは人と繋がる教育ではなく人を排除し押しのけることを良しとする教育であった。だから、仲間と協労するどころか、自分以外はみな敵であり、仲間が病気などで脱落すれば敵が一人減ったと内心ほくそえんだりするのである。これが日本の教育の実態である。そして、そのようなことを不思議ともおかしいとも思わない生徒たちが今なお大量に作り出されているのだ。
そのような学校教育のあり方に違和感を覚え、学校に通えなくなった子どもたちが、いわゆる不登校とかひきこもりと言われる子どもたちの多くを占めている。さらに、他の子どもたちが問題ないとしていた学校や学校でのあり方に違和を感じた子どもたちであるから、他の子どもたち以上に個性的である。しかし、学校の中では個性的であるということだけでいじめ等のターゲットにされやすいのだ。
ではそのような子どもたちを受け入れるフリースクールは、そういう子どもたちの個性をさらに引き伸ばす教育を行えばいいのだろうか。答えは「ノー」である。そういう子どもたちの個性を最大限に尊重する教育を行うのは当然であるが、教育は人の“社会化”を目指す行為なのである。そして、フリースクールで“公”を目指す教育を行う場合、そういう固有の個性をいかに公的なものと結びつけるかということが最大の目標となる。そのままで十分個性的な子どもたちである。そういう個性的な子どもたちであるからこそ、“公”としての“コモンセンス”を体得してもらいたいのだ。間違っても、知の袋小路に追い込んではいけないのである。
改めて言うまでもないことだが、“教育”というものは、それが学校という国家行政機関が行おうとフリースクールという民間の機関が行おうと、なべて“公”を実現するための活動である。それに国家のお墨付きがあるかどうかということは全く関係がない。しかし、その前に大事なことは、公教育であろうと私教育であろうと、その教育が“公”の営みであるためには、そのメンバーである生徒たち一人ひとりが“個”的な存在として明確な輪郭を持って存在していなければならないということである。たとえば、個々の楽器の音色が生きてこそシンフォニーは生きるし、個々の色彩が輝いてこそ花火は美しい。問題は、果たして今の学校教育で個を尊重する教育が可能かどうかということである。個を尊重するという側面においても、フリースクールでの関わりのほうが格段優れている。
繰り返しになるが、“教育の真の目的は何か”と問われたならば、それは“子どもたち一人ひとりが社会性を身に付けること”だと答えたい。これは何も公教育だけの話ではなく私どものようなフリースクールにおいても目指すべきところは同じである。もちろん、“学業”を身に付けることは学校/スクールという教育機関の大前提ではあるが、それと同等に、時にはそれ以上に、“個と集団”のあり方を心得ることは学校/スクールの必須条件なのである。
その意味において、新聞やテレビなどのマスコミに登場してくる校長が、“学校は勉強をするところであり、社会性を身に付けるところである”と言うことはまことに正しい認識であると思う。ところが、残念なことに現実には、そういうことを敢えてマスコミに向かって言わねばならないということは、その学校ではそれが実現できなかっただけでなく、事件を引き起こすまでになっていたということである。現実には多くの場合、それは言葉の綾であり、建前に過ぎないものになっている。
それは何故か。その一つは、教師は学校生活を終えた後にすぐに子どもたちの前に立つことが多く、他の職種に比べて自己研鑽を積む下積み期間が短く、また仕事の対象がいつも子どもたちであり、大人と仕事で渡り合うということはあまり多くない、その分社会性が身に付きにくい職業であるからということがある。社会性の問題だけを取り上げるならば、民間企業でもまれる人間の方がよほど豊富な社会体験をすることになる。一般の人間から見て、先生という人たちにどこか世間知らずの書生っぽい感じが拭えないのはそのためである。近年、教員の職業体験の必要性とか民間人校長の登用ということが盛んにもてはやされるなったのもそういう経緯からである。生徒たちはそういう教師たちに指導を受けながら学ぶわけだから、教科の指導には長けてはいても、勢い社会性が乏しい学校生活を送るようになることは止むを得ない。それに今まで学校は社会との間に塀を設け、社会の風が直接入り込まないようにすることを良しとしてきた。その結果として、子どもたちの社会性の乏しさが現在のような教育の危機を生み出した一つの要因ともなっていると考えられなくもないのだ。
結論を急ごう。端的に言えば、学校教育が擬似的な上からの“公”の尊重を子どもたちに要求するあまり、本来誰でもが有している掛け替えのない個をないがしろにしてきたのに対して、フリースクールは逆にもともとそれぞれの子どもたちが有している個性をそのまま認め、徐々に社会化を図るアプローチを行う方法をとっている。「個があっての公であり集団なのだ」という考えがそこにある。個が輝き、個々が響きひを発することによって集団もまた輝き、互いに響き合うのである。それがフリースクールの目指す教育である。アプリオリの善もなければ、アプリオリの“公”というものもない。はじめに具体的な生身の個々の子どもたちがいる。はじめに“個”ありきということである。それであってこそ、はじめて個も集団も生きるのである。