2006/12/12
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 県内の高校入試を考える学集会に参加して

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


主催のNGO:埼玉・高校入試を考える会のメンバーは、欠かすことなく入選協の会合に参加し、埼玉県内の高校入試の状況や県教委の動向などについて、いつも最新の情報を提供してくれる。県内には他にも高校入試を考える民間の集まりはあるが、どちらかというと進学塾やテスト業者など業界団体という趣が強い。しかし、この会のメンバーは教員や元教育関係者、あるいはPTA役員の母親などより偏りのない情報を得られるように思う。

会長さんの話しから察するに、埼玉の入試制度は現在の中学1年生からまた大きく変わるらしい現在、埼玉の入試は前期と後期に別れ、早い段階から進学先が決まるため、中学3年生の3学期の授業が成り立たない状況にあり、入試日程を遅らせたり、試験を一本化するなどの対策が取られるらしい。

▼総合問題について
現在、埼玉の前期募集の高校入試では、建前では試験はないことになっているが、実際は県教委が作成した総合問題A(文科系)総合問題B(理科系)があり、55校くらいがそれを採用し、さらに8校は学校独自の総合問題を作成しているという。最初は浦和高校や浦和一女高校の小論文の形で導入されていたものが翌年からは総合問題となって登場したのだという。

県教委が作成した総合問題については県のHPにも掲載されかなり力を入れた分析がされている。たとえば、英語ではヒアリングやコミュニケーション能力を重視している。高校側が独自に作成した問題はトップレベルの難度である。浦和高校の自校の歴史を題材にした問題や大宮高校の高い英語力や社会性を問う問題は、普通の中学生ではとても歯が立たない。高校側で自校に相応しい生徒、授業に付いて来れる生徒を求めたことの結果であるらしい

▼入試の判定について
高校側では総合問題をどう判定に使うかという問題がある。実際の選抜では「面接」と「調査書」で考えるが、「面接」で判定してはいけないことになっているので、結局「調査書」の数値で判定する。ところが面接で判定されると考える生徒は個性を見てもらうために、たとえば面接官の前で踊りだす生徒もいるのだとか。ところが、実際には入試の多様化が進み、英語科の先生にしても基準がみんな違うのだという。そこで、「推薦制度にもいいところはあった。学力を問うやり方と推薦を行うところと二本立てのところがあってもいいのではないか…。」という意見も出てくることになる。
中学校や塾などでは「自己PR書」「自己申告書」で生徒にいい作文を書かせようと一生懸命だが、高校側ではそういう作文を評価することはほとんどないという。客観的な尺度がないからであろう。そもそも、業者テストが廃止され、学校が絶対評価しか持たなくなった時点で、何を基準に選抜するのか難しくなっているのが現状である。また、高校の中には、総合問題などの採点をしていても空しさだけを感じる高校もある。

▼学区の撤廃について
学区撤廃は高校の統廃合の一環として推し進められている。だが、学区制が廃止され大学区制になった弊害もいろいろ起きている。8人の二次募集枠に58人も受けたところもあるという。旧学区による違いもある。二次募集に合格した生徒が二時間以上もかけて通っている例もあるらしい。定時制にさえ行けなかった生徒もいる。また、農業科を維持するためには推薦入試の復活も必要ではないかという意見もある。かつて県教委が率先して推し進めたコース制は今や衰退の一途を辿っている

▼高校中途退学について
高校中退者はここ10年間全国的に減少傾向にある。埼玉県でも私立高校では減少している。ところが埼玉県の公立高校では逆に増加している。これはどういうことなのか。入試選抜のやり方に根本的な誤りがあるのではないかとも考えられる。

※「くるくる変わる埼玉の高校入試」とは、誰がつけた形容か知らないが、埼玉県の入試制度の定まりなさをよく表している。生徒や保護者のみならず教員の間からも悲鳴に近い声が聞こえてくる。それでいて一向に生徒のためになっているとも見えない。第一、進学率が97%を超え、実質は数%のふるい落としのために入試が行われている感じさえする。どうして高校全入ではいけないのだろうか。高校のランクが上中下の3段階に分かれ、それによって四年制大学のトップを目指せる高校、何とか大学に進める高校、およそ大学進学は望み薄の高校に分類されるが、そのどの高校を卒業しても高卒だという。高卒のためには質はどうあれ文科省が定めた高校を卒業することが必要だという
ここまで来ると、「そもそも高校卒業資格とは何なのか」「高卒資格は誰のためにあるのか」という気がしないでもない。進学高校の未履修の問題も含め、今一度考えるべき時期に来ているのではないか。