2007/04/22

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 小学校の英語教育について  

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

中央教育審議会の専門部会が昨年3月、小学5年から週1時間程度の必修化を提言したが、伊吹文部科学相「小学校では外国や外国語に興味を持つ程度にとどめ、自国語をしっかりやるべきだ。その上で、中学校から国際感覚を磨き、外国語をマスターしていくのがいい」と述べ、必修化は時期尚早との考えを示していた。東京都の石原知事もそういう考えを表明していた。ところが、実際には、ALT(外国語指導助手)を使うなど,積極的に英語教育を進めているところが多い。

国の近さから言えば韓国語や中国語だが、政治経済的な関連から言えば圧倒的に英語である。教育も政治経済的な繋がりから独立はしていないのだ。フランス語やドイツ語などはモードや医学などを除けばほとんど教養の領域である。

さて、そういうわけで小学校から英語の導入は必須の条件となりつつあるが、小学校高学年からの英語の導入を受験勉強と絡めないために、英語の会話等を口頭で楽しませる工夫をし、文字は教えないことになっている。ここでも「9歳の壁」ということが言われ、小さいときから親しませたほうがナチュラルな発音になると喧伝されている。が、母国語と同じようにナチュラルでなければならないのかということにはいろいろ異論のあるところでもある。日本語を話す外人さんが外国語訛りがあっても一向に平気であるどころか、それが当たり前であるという意識さえ働いている。あまりに日本語が流暢であれば逆に「変な外人」と思ったりしないでもない。

さて、小学校から英語を学ぶということが避けられない情勢であれば、では「効果的な英語の身に付け方」はどういうものがあるかと考えなくてはならない。振りかって見れば、自分が地方の田舎の中学生の生徒であった時は、英語の学び方も「外国語としての英語を学ぶ」というものであった。つまり、英語は母国語とは明らかに違う外国語であったし、英語を勉強するというのも「言葉を習得する」といよりは「学問として学ぶ」ものであった。だから、喋ることはあまり想定されておらず、英語を学ぶということは「やたらと難しい文献を読むこと」でもあった。

ところが今、私たちは経済的にも文化的にも英語はとても身近な存在となっている。もはやカタカナ語のない世界を想像することもできない。それによって、英語の習得の仕方そのものも大きく様変わりしたのである。たとえば、今年4月発行のNHKのラジオテキスト「基礎英語1」には次のように書かれている。
みなさんは、小学校の教科書の中に出てくるカタカナ語の数がいくつあるか知っていますか? じつは、1100語以上もあります。そして、その80パーセント以上のことばの語源が英語であることがわかっています。つまり、みなさんはすでに相当数のカタカナ語を知っているというわけです。」「基礎英語1」を1年間聞き続けたら、1300語以上の語彙が身につくのだという。

だから、英語の習得の仕方もかつての自分たちがしたような方法ではなく、いわば生活の中ですでに慣れ親しんでいる言葉として理解していることになる。朝起きてから寝るまで、そこに登場してくるカタカナ語をすでに意味も発音も大体分かっている英語として理解していくことになる。だから、自分たちとは異質な外国語を学ぶのだという違和感をさほど持つことなくスムースに入っていくことが出来るのだ

フリースクール・ぱいでぃあの小学生が英語に取り組む場合もそのような取り組みが基本となる。評価を気にすることなく楽しんで取り組んでもらえばよい。ただし、学校と少し異なるところがあるとすれば、それは併せて文字の習得もしてしまおうということである。フリースクールはもともと他の生徒と競争させることを想定していないから、「文字を習わせることで英語の学習が競争に繋がっては困る」という心配をすることはない。英語の綴りには英語独特の書き表し方があり、それは発音とも密接に結びついている。だから、姑息な心配をしなければ、表音文字と発音を同時に理解させる方が効果的なのである。お隣の韓国では日本よりも小学校からの英語教育に熱心であり、高学年には文字の習得もさせている。

ただし、伊吹文科相や石原慎太郎都知事も言っていたように、母国語の理解をしっかりさせることが何よりも大事なことであるのには変わりはないであろう。外国語の理解が母国語の理解を深める役割をすることは大いにあり得ることであり、それが外国語学習の大きな利点でもあるのだが、外国語の理解が母国語の理解を超えるということはまずはあり得ないのである。だから、母国語の理解あっての外国語理解なのである