教育におけるパターナリズム--そのA自分の思いを語ること


2005年8月ーB教育におけるパターナリズム--そのA自分の思いを語ること

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■教育におけるパターナリズム--その2■ 〜自分の思いを語ること〜
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「パターナリズム」について、教育畑の人たちがこのことを意外なほどご存じない、ということに少々驚く。医療・看護・保健分野では随分前から批判的な意見があったのだから。私は、今後教育界に於いてこそこの「パターナリズム」の問題を批判的に考えていかなければならないと思っている。というのは、今までの教育のある部分はパターナリズムそのもので成り立っているし、教育におけるパターナリズムを当たり前のこととして考えている人たちも多い。また、新しい教育のあり方がこのパターナリズムによって阻害されているとも思えるからである。

そこで、多少とも参考になればと思い、他の人の考え方も参考にしながら、以下に若干まとめてみた。

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「パターナリズム」(pataernalism)というのは、一般に父性主義とか父権主義とかいう訳の分からない言葉に訳される。要するに、「親が子を愛し慈しむように相手の面倒を見る」ということが原義。「温情的干渉主義」とでも言ったらいいのかな。つまりは、「親が我が子を我が身と同じように考え、我が子の痛みを我がこととし、我が願いは我が子の願いと考える」というようなこと。言い換えれば、「当人の利益のために(for one’s own good)、当人に代わって意思決定をすること」。これは基本的には「善意」に基づく行為である。

◆一見、「結構なことじゃない!」となりそうだ。実際、だから、今まで日本の社会では隅々までこの考え方が支配的だった。特に他律主義、全体主義的な色彩の強い日本の社会においては。しかし問題は、それは自己と対象を同一視し、当人の意志を等閑に伏していることであるということ。「相手と自分とは、同じ意志を分かち合っており、同じ願いを心に秘めている」という暗黙の前提の下にある。どこかで聞いた言葉、「人類みな兄弟」「世界は一つのファミリー」という意識も、「お上だから」という意識も全てここから生まれる。(これはいつも上座にいるものがつかう言葉だ)

◆「パターナリズム」に対する対立概念として、「オートノミー」(autonomy)がある。一般に自律(自立)と訳される。自分のことは自分で決めるということ。自分のことは自分が一番よく分かっている。誰かに自分の意志を委ねることは不利益に繋がるとも考える。近代個人主義、人権思想、自己決定権(自己責任を伴う)などの高まりもこの背景にはある。ここに公権力が土足で上がりこんではいけないのである。

◆日本で「パターナリズム」批判がまず鮮明にあがったのは、医療の世界であろう。医者が患者に善意で持って治療し、先生(医師)の言うことに黙って従う。それがいい患者であった。でも、「病気」は医師に任せたが、「自己=主体」まで医者に任せた覚えはない。自我・人格まで治療してと頼んだつもりはない、ということである。

◆家庭、職場、教育界や医療界、様々な人間関係など、この日本社会を覆っているパターナリズムをなんとかしなければ、明日の日本の展望はないと私は思う。たとえば、医療界では随分前からパターナリズムの見直しが始まっている。「インフォームドコンセント」(説明と同意)もその反省から生まれた考え方である。これは知の寡占状態を切り崩し、患者自身の意志や主体性を回復しようとするものである。
かつての医療においては、患者の意志は医療者の意志に一致すると考えられていた。つまり、それが「善意」である限りにおいて患者の意志と医療者の意志とは重なり合うものと考えられるのと考えられていた。ところが現在、これまで隠されていた患者と医療者との間の意志のズレが目に見える形で現れてきた。一つには医療者側の「善意」が必ずしも完全ではあり得ないということ、そしてもう一つには医療者が考える「善意」と患者側が考える「医療者の善意」が必ずしも一致しなくなってきたということがある。特に患者よりもデータを診ることを重視する医療ではそうなるだろう。

■ただし、この「パターナリズム」の問題はまだまだ「〜ing形」の状態にある。医療・厚生分野では徐々に浸透している。しかし、小児医療や精神医療での「パターナリズム」は完全に払拭できるのか、という問題もある。小児に自己決定はどこまで可能か。後見の親はどこまで本人の意思を代弁できるのか。親の同意を子の同意と考えていいのか。さらに精神医療では本人の自己決定権そのものが怪しくなる。精神医療では治療により患者のノーマライズ化を図るが、それを支えているのは「パターナリズム」による「善意」そのものである。だが、その「善意」はどこまで善意なのか。権利の主体であるためにはノーマルであることが必要だ。だが、本人はノーマルな状態ではないのである。

※私的なことだが、私は昨年10月、脳神経外科に入院し小脳血管芽腫の大手術を行い、生死の境をさ迷い、その病院はじまって以来ともいうべき奇跡的な生還を遂げ、再びシャバに戻ってきた。最高の医療と技術とスタッフがその時奇跡的に揃っていて初めて可能なことであった。(その直前には医療過誤による死亡者が出て病院は混乱していた)(このことについては、後にどこかで語りたい)
その時、病院側は医師も看護師も最高の体制で臨んでくれたと今でも思う。でも、それでも、管理者側が良かれと患者に迫り尽くすことと、患者が思い願うこととの間には、ほとんど埋め尽くせないような溝があったのである。精神医療の怖さはそこにある。

「精神病棟のパターナリズム」の問題点を指摘した最初のものとして私の記憶にあるのは、世界の無声映画の代表作の一つ・表現主義の傑作「カリガリ博士」である。ある殺人を犯した人物を追いかけていくと、彼は精神病院の院長であった。追いかけた人物は逆に捕らえられ、いつの間にか精神病院の患者にされていた。その彼は「ここの院長は殺人者だ」と仲間の精神病の患者に熱く語りかける。だが、誰が精神病の患者の言うことをまともに考えるだろうか。真相は神のみぞ知るである。

教育もまた「パターナリズム」の牙城である。いや、教育の営みの根源にこの「パターナリズム」の問題が潜んでいる。子どもたちは教えられる未熟な存在としてあり、その権利は二義的なものとしてしか考慮されない。だから教育現場は子ども主体の場であるはずなのに、実際は教師が主人公の場となっている。また、子ども声は親・保護者の声によって代弁される。だから、教師はもっぱら子どもの「代理」人としての親を通して同意を得ようとする。だが、親はどこまで子どもの心の代理人であり得るのか。代理人足り得るのか。子どもの心=親の心ならば、なぜ児童虐待等の問題は起こるのか。ルソーがなぜ敢えて「子どもの発見」と言わねばならなかったのか。子どもの教育の歴史はこの「パターナリズム」の軋轢の歴史でもあったのだと、私は思う。

不登校・ひきこもりの子どもたちは、何らかの意味でみなこの「パターナリズム」の傷を負っている。

#とりあえずはここまで。


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